月曜×机上での考え方×現場での考え方

『考え方』について考えている。


考えるというのは、自分の頭の中で造形しているイメージがある。
1つの考え方=1つの造形
という感じ。この造形の仕方を考えるとなると、世の中には既存の手法がたくさんあるし、個人によっても違うと思う。そこはいいと思うんだけど、その考えた事の『答え合わせ』に大きな問題があるような気がする。


例えば、ひとつの事故について考えましたと。そのことについて現場で確認することができました。そのとき、自分の中の考え方と現場で起こっている真実を比べることが『答え合わせ』にあたると思う。そして、答え合わせの結果が正しい部分もあれば違う部分もあったとした場合に、人は2通りの方法を取っている思うのだ。


1.比較をして近ければ正解とする。
2.比較をして間違っているところの造形を直して事実を捉える。


私的見解だが、どのような自体でも1を選ぶ人がいる。
『80点でも取れていれば正解でしょ?』みたいな。
本当に質が悪いと、自分の考えと現場の自体があまりにも違う場合にもその場で自分で考え直してから比較をして近ければ正解!としている。現場の真実から考え方を汲み取れないのだ。汲み取る意識がないとも言えるし、真実は自分の想像できる範囲内だと思い込んでいるとも言える。これが想像力が無いということではないのか。
ここで例えになるが、「真実はいつもひとつ!!」というキャッチコピーがある。真実を数で表すという画期的なコピーだと思うのだがそれはさておき、『真実』という事象の意味は意識していないといけない。世の中で起こっていることのすべては、自分の想像内で収まるだなんて簡単に思ってはいけない。そう割り切っていては、いつまでたっても真実には辿り着けない癖がつく。もしかしたら、いきなり現場に行った際の情報の得方も違ってくるだろう。自分が考えるのに必要なだけのことしか拾わないことと、真実を客観的に捉えて考えることができるのでは、結果に大いに差がでる。
あと、恩師の言葉を借りるのだが、
「『実験の結果がおかしかった』という結論はあり得ない。それは、『実験の結果は正しいが、人が間違っている。』のだと。」
実験屋として職を成している人から聞いたことだ。ひとつの事実に対して「おかしい」などという捉え方は無い。それは、なにかを間違えた人がおかしいと疑うべきなのだと。しっかりとした真実の捉え方を教えてくれていた。最近になってより意識するようになったが、これは実験でもなんでもなく、すべての真実に対していえることなのだ。


まとめとなるが、『考え方』については気をつけなければならない。ひとりで仕事をすることなんてそうそうないが、いろんな人がどのように考えた上の結果なのかということが、真実を探る上でのヒントになる。
誰しもが必ずしも正しいことを言っていない可能性もある。
そういう認識を常に持っていたいと思った。